日本遺産候補認定! 産業遺産「鋸山」の魅力とは?

標高329.5m。どこにでもある低山のようでいて、仏像あり、産業遺産あり、独特の山容ありと、ここにしかないWONDER!な世界を見せてくれる鋸山。ここでは、産業遺産としての鋸山をより楽しむために、知っておきたい予備知識をご紹介していきます。

江戸時代から昭和にかけて「房州石」の主要産地として採掘が行われていた鋸山。今も残る石切場跡は全国的にも大規模なもので、貴重な文化遺産です。それでいて、ファンタジーの世界のような不思議な魅力と唯一無二の存在感があり、冒険の舞台にやってきたようなワクワク感を呼び覚ましてくれます。さらに山の南麓には巨大な大仏や、無数の羅漢像がひしめく日本寺の境内が広がっており、仏教×産業遺産のミックスでワクワクはさらに増し増しに。

そんな鋸山、すぐそばには久里浜とフェリーでつながる金谷港もあり、首都圏を中心に多くの観光客が訪れていますが、実は外国人からの支持も厚く、NIKKEIプラス1の外国人が次に目指すDeep Japanランキング(2018年)では、なんと第2位に選ばれています。また、2021年には文化庁による「日本遺産」候補地域に認定され、ますます注目度が上がっています。

ちょっと前置きが長くなりましたが、ここからは鋸山登山がもっと楽しくなる産業遺産・鋸山の予備知識をお届けしていきます!

鋸山に登るなら、知っておきたい「房州石」のこと

鈴木四郎右衛門家 石塀

鋸山は、火山噴出物が海底で長い年月をかけて固まった「凝灰岩」でできています。加工しやすくまた耐火性があり、竃や七輪などにも使われ庶民に親しまれたこの石こそが「房州石」! 建築資材に適し、江戸時代中頃から明治から大正にかけての最盛期には、年間約56万本が切り出されました。
房州石の採掘は昭和60(1982)年に幕を閉じましたが、今でも麓の町・金谷では、石塀、門柱、蔵、建物の土台、灯篭などに房州石が使用されており、独特の景観を見せてくれます。また房州石は、横浜の開港、台場の整備、皇居の造営など、東京湾岸の土木建築工事に使用され、日本の近代化を土台から支えていました。

その面影を感じながら歩こう。「石切場職人」たちのこと

誇りに満ちた表情が印象的な石切職人たち(昭和40年代)

今では信じられないことですが、昭和20年代頃まで、鋸山での採掘は手掘りで行われていました。つるはしを使って、1本ずつ一定の規格の大きさに切り出していく途方もない作業。手掘り時代終盤の昭和20年後半頃の資料によれば、1日に1人の職人が切り出せる本数は8〜10本だったといわれます。
採掘機のチェーンソーが導入されたのは昭和33年のこと。上の機械掘りへと移行した昭和40年代の石切職人たちです。チェーンソーの導入後は、1日に1人の職人が切り出す本数は、手掘り時代の約10倍の80〜100本に伸びたそうです。

私たちが歩く道は、先人たちの仕事場でした。鋸山のあちこちにある不思議な幾何学の形状は、良い石を追い求めて切り進んだ、彼らの職人魂の産物です。彼らが残した仕事場と、そこに宿る職人の心を見ると、「働く」ということを改めて考えさせられます。

芳家石店の印袢纏(しるしばんてん)。大正時代の石切職人たちが着たようです。藍染めで石屋の名と紋が印されています。

かつて職人によって切り出され、出荷の時を待ち続ける房州石

職人が岩壁に彫った猫のレリーフ。「猫丁場」と呼ばれるスポットにいますので、見つけてみてください。

鋸山を代表する産業遺産「車力道」と「樋道」

車力道(しゃりきみち)

「車力道」は、鋸山から切り出された房州石を麓まで運び降ろした道で、主に中腹から山麓にかけての緩傾斜地で見られます。急な坂道に石畳のように石が敷かれているのが特徴です。
石を運ぶ人は「車力(しゃりき)」と呼ばれ、なんと主に女性が担っていました。切り出された房州石は1本が80kgもありましたが、それを「ねこ車」と呼ばれる荷車に3本(240kg)も載せて運びました。
運ぶときは安全第一。ねこ車の後端を道に擦りつけて、ブレーキをかけながらゆっくりと下りました。石敷の路面には、ブレーキで削れた筋状の溝(轍)が残っています。

 

ねこ車で石材を搬出する女性(明治期と思われる)

「樋道(といみち)は、山頂から中腹にかけての急傾斜地で見られます。必ず石段が併設されているのも特徴で、石を樋道に滑らせながら、作業者が脇の石段を下りました。また、石段は麓から石切り場まで朝晩往復するための通路としても使われました。

樋道(といみち)

山頂域にある大規模な石切場跡「ラピュタの壁」「岩舞台」

ラピュタの壁

鋸山の山頂域には、高さ50mを超える断崖絶壁の石切場跡が連なっています。なかでも代表的なものが「ラピュタの壁」と名付けられた最大垂直面96mの石切場跡です。圧倒的といえるほど壮大な景観で、鋸山を代表する見どころの一つですが、登山道から少し横道に入った場所にあるので、案内板を見逃さないようにご注意を。

岩舞台

鋸山の採掘は昭和60年を最後に終焉を迎えましたが、その最後の時まで採掘が続けられた場所が山頂域にある「岩舞台」です。こちらもラピュタの壁同様、登山道から横道に入った場所にあります。巨大な岩壁には「安全㐧一」という文字が彫られ、この文字の下はつるはしによる手掘りの跡があり、すぐ上あたりからチェーンソーの跡に変わっています。
絶壁の下には、まるで劇場の舞台のような空間が広がっており、それが名前の由来となっています。この空間を利用して、実際にコンサートが開かれたこともあります。
また、岩舞台にはかつて使われていたショベルカーや、山頂域の石切場と麓をワイヤーケーブル(索道)でつないだ運搬システムの跡も残っています。

岩壁を切り抜いて作った道「切り通し」

切り通し跡

もうひとつ、鋸山の至るところで見ることができるのが、「切り通し」と呼ばれる岩壁を切り抜いて作った道です。採石する際、良質な石材を求めて切り下ると、石切場周辺が岩壁で囲まれた状態になります。そのため、石材やズリ(石の屑)の搬出道を作る必要がありました。細い道の両側に巨大な岩壁がそびえ、圧迫感を感じるような独特の景観となっています。
大規模な石切り場は「切り通し」を伴うことが多く、これを地元では「口抜き」と言いました。「切り通し」を通過すると石材を集積する「平場」があり、そこが石材を滑り下ろす滑り台である「樋道」の起点になるのが通例です。「切り通し」両側の壁面にも、石を切り出した跡が横縞模様となって残っています。

鋸山名物の「地獄のぞき」も、産業遺産の一つ

最後に紹介するのは、鋸山の代名詞とも言える超絶断崖絶壁スポット「地獄のぞき」です。日本寺境内内にありますが、実は地獄のぞきもかつては石切場でした。そして、このような姿になったのは「境界」が関係しています。

鋸山は、千葉県富津市と鋸南町の間にそびえる山。ちょうど尾根筋のところに市境があり、北が富津市、南が鋸南町となっていますが、古くは北が「上総国金谷村」、南が「安房国本名(元名)村」となり、村境であり国境でもある重要な領域境界でした。そこで、石材の採掘によって地形が変わり村境が不明確になることがないように、尾根筋は掘り残され、隧道(トンネル)を掘って連絡道としていました。

地獄のぞきも、この領域境界の尾根筋にあたる部分にあります。前述のように村境を温存するために尾根筋はしっかり残しつつも、その下では良質な石を求めて採掘が行われました(ここに人間の飽くなき欲望のなせる技です)。ちなみに、かつては右側のせり出した岩(地獄覗き)と左側の岩場が、まるで橋をかけたようにつながっていましたが、関東大震災の時に崩落し今の姿になりました。


 

ここでご紹介したスポット以外にも、鋸山には至るところに多くの産業遺産があります。垂直に切り立った岩壁、岩肌についた縞模様、仲良く並ぶ苔むした石たち……不思議でファンタジックな景観には、それぞれに物語があります。
金谷の町にある「鋸山美術館」には、別館として鋸山の貴重な歴史を知ることができる「鋸山資料館」(入館料300円/受付は鋸山美術館)が併設されています。鋸山から切り出された房州石が使われた石倉の建物は、国登録有形文化財にもなっています。ぜひ登山の前後に立ち寄って、鋸山をより深く知ってみてください。

鋸山資料館

のこぎり登山部

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のこぎり登山部

鋸山の歴史や見どころを発掘調査中!

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